人間失格
人間失格 太宰治著
『私は、その男の写真を三葉、見たことがある』から始まる、《はしがき》。それは幼年期、青年期、それから白髪ではあるがもう年の頃が分からない一人の男の写真であって、どれもが見たことも無い不思議な表情をしている。この《はしがき》を読み始めた時点でもう、これから語り出すだろう男・葉蔵に始終付きまとい続ける侘しさを予感させられるのです。幾度も読んでいてなお予感するという感じ方は奇妙であるけれど、やっぱりこの《はしがき》部分を読むと、侘しさというには単純すぎるあらゆる予感が呼び起こされます。
続く《第一の手記》の『恥の多い生涯を送って来ました』は、あまりにも印象的です。そしてここで語られる幼少期には、もの悲しさを増幅させられました。人間であること、人間の営み、自分以外の人の発する言葉、その意図、それらに疑問をもって、分からなくって、思い巡らせるほどに不安と恐怖が押し寄せる。皆は一体どうしているのか、どう思っているのか、まったく見当もつかないものだから、積み重なる不安や恐怖自体のことも、その種となる様々な分からない事も、誰にも打ち明ける事も出来ずに、道化となる自分を生み出してしまいます。この道化を演じ始めた葉蔵を痛々しい思いで見つめてしまいます。
道化が尚更板についてきた頃《第二の手記》では、背後から突き刺されるような出来事に出会います。道化を演じ損ねることはあるまいと思い始めた頃、特に警戒をしていなかった一人・竹一に道化を見抜かれてしまうのでした。自分は道化であるということを取り繕おうとする葉蔵。そんな向きで一心に竹一と接していた葉蔵が、竹一だけには、通常皆に見せる絵とは違った手法の、陰惨な絵を見せる様子には、まだ救われるのではないか、上手く折をつけてやれるのではないかと、読んでいて少しの希望を抱いてしまいます。
けれども東京へ出、画学生・堀木正雄と出合ってのちは、持ち前の恐怖心から否を唱える術を持たない葉蔵は、流されるまま落下していきます。堀木の持ついい加減さもさることながら、弱さを過剰演出する術を使い始めた葉蔵の卑怯な一面も見られます。この卑怯な一面と、《第二の手記》前半の地元での様子。道化は誰にも知れないだろうと僅かな驕りを見せる場面。このどちらもが失敗に終わるのだけれど、道化を演じるだけでなく、こうした一面を見せられて、人間臭さを充分に嗅ぐ事が出来ます。持ち前の恐怖しかり、人間らしさを道化という仮面以外、例えばあからさまな偽善、道理も理解出来ぬままの妥協なんていう仮面を被る事が出来ない姿、それを紡ぐと人間失格となってしまうのだななどと、しんみり重く心にのしかかってきます。
その有様が綴られる《第三の手記》。駆られるように、悪いと思う方へ積極的に傾いていく日々。蜘蛛の糸に縋るように、純真なものを信じ平安を掴もうとする時期。それさえ叶わず泥のように溺れていく様。真に救いの手だと涙するけれど、それすら裏切られていたのだと感ずる葉蔵。『ただ、一さいは過ぎていきます』という二十七になる葉蔵は、白髪のせいで大抵四十以上に見られます。ただ、一さいは過ぎていく。過ぎていくけれども、それでも全ては繋がった先にあるのだなぁと思わずにはいられません。葉蔵のように劇的な出来事はなくても、閉塞感、焦燥感、侘しさなどは、とても共感してしまいます。とろみのある微温湯が押し寄せて、取り囲んで、逃れられなくて窒息してしまうような読後感という感じでしょうか。けれども、また読んでしまうんだろうなぁという好き小説です。
ピンクい方は期間限定カバーだそうです。持っているのは右でございます。
『私は、その男の写真を三葉、見たことがある』から始まる、《はしがき》。それは幼年期、青年期、それから白髪ではあるがもう年の頃が分からない一人の男の写真であって、どれもが見たことも無い不思議な表情をしている。この《はしがき》を読み始めた時点でもう、これから語り出すだろう男・葉蔵に始終付きまとい続ける侘しさを予感させられるのです。幾度も読んでいてなお予感するという感じ方は奇妙であるけれど、やっぱりこの《はしがき》部分を読むと、侘しさというには単純すぎるあらゆる予感が呼び起こされます。
続く《第一の手記》の『恥の多い生涯を送って来ました』は、あまりにも印象的です。そしてここで語られる幼少期には、もの悲しさを増幅させられました。人間であること、人間の営み、自分以外の人の発する言葉、その意図、それらに疑問をもって、分からなくって、思い巡らせるほどに不安と恐怖が押し寄せる。皆は一体どうしているのか、どう思っているのか、まったく見当もつかないものだから、積み重なる不安や恐怖自体のことも、その種となる様々な分からない事も、誰にも打ち明ける事も出来ずに、道化となる自分を生み出してしまいます。この道化を演じ始めた葉蔵を痛々しい思いで見つめてしまいます。
道化が尚更板についてきた頃《第二の手記》では、背後から突き刺されるような出来事に出会います。道化を演じ損ねることはあるまいと思い始めた頃、特に警戒をしていなかった一人・竹一に道化を見抜かれてしまうのでした。自分は道化であるということを取り繕おうとする葉蔵。そんな向きで一心に竹一と接していた葉蔵が、竹一だけには、通常皆に見せる絵とは違った手法の、陰惨な絵を見せる様子には、まだ救われるのではないか、上手く折をつけてやれるのではないかと、読んでいて少しの希望を抱いてしまいます。
けれども東京へ出、画学生・堀木正雄と出合ってのちは、持ち前の恐怖心から否を唱える術を持たない葉蔵は、流されるまま落下していきます。堀木の持ついい加減さもさることながら、弱さを過剰演出する術を使い始めた葉蔵の卑怯な一面も見られます。この卑怯な一面と、《第二の手記》前半の地元での様子。道化は誰にも知れないだろうと僅かな驕りを見せる場面。このどちらもが失敗に終わるのだけれど、道化を演じるだけでなく、こうした一面を見せられて、人間臭さを充分に嗅ぐ事が出来ます。持ち前の恐怖しかり、人間らしさを道化という仮面以外、例えばあからさまな偽善、道理も理解出来ぬままの妥協なんていう仮面を被る事が出来ない姿、それを紡ぐと人間失格となってしまうのだななどと、しんみり重く心にのしかかってきます。
その有様が綴られる《第三の手記》。駆られるように、悪いと思う方へ積極的に傾いていく日々。蜘蛛の糸に縋るように、純真なものを信じ平安を掴もうとする時期。それさえ叶わず泥のように溺れていく様。真に救いの手だと涙するけれど、それすら裏切られていたのだと感ずる葉蔵。『ただ、一さいは過ぎていきます』という二十七になる葉蔵は、白髪のせいで大抵四十以上に見られます。ただ、一さいは過ぎていく。過ぎていくけれども、それでも全ては繋がった先にあるのだなぁと思わずにはいられません。葉蔵のように劇的な出来事はなくても、閉塞感、焦燥感、侘しさなどは、とても共感してしまいます。とろみのある微温湯が押し寄せて、取り囲んで、逃れられなくて窒息してしまうような読後感という感じでしょうか。けれども、また読んでしまうんだろうなぁという好き小説です。
ピンクい方は期間限定カバーだそうです。持っているのは右でございます。
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