プラスティック・ソウル
プラスティック・ソウル 阿部和重著
これはなんだか良い予感がするぞ、と思っても当たったり外れたりするのだけれど、これは私としては楽しめました。巻末付録の解説とそれに伴う注釈に引用されている阿部談からすると、どうも産みの苦しみの末に本人的には思わしくない感じらしいのだけれど、読むほうとしては関係が無いわけで、前に読んだ阿部作品は『グランド・フィナーレ』だったのだけれど、それよりも面白く読めました。これは発行2006年なのだけれど、書かれたのは『ニッポニアニッポン』よりも前だということです。
何かの説明が延々と続かないせいかとてもテンポ良くよめて読みやすいな〜と思っていたら、2章で「ん?」と引っ掛る訳ですが、前後して読みながら納得すればその後は同じようにまたテンポよく読めました。
アシダイチロウが本人と、本人でありながら客観性を持った私とに別れてこれまでに起こった事を記していくという形式だけなのではどうもないようだと思い始めた辺りからが面白く読めました。
アシダイチロウが語る、私が語る、そしていつの頃から分からないが同居しているヤマモトフジコが語る。いつの頃からか分からないのは、アシダがとても忘れっぽくて、そのアシダと自分が殆ど人格を共有しているような気になっているフジコにしてもやっぱり忘れっぽいものだからどうにも分からない。
分からない事は他にもあって、イダフミコ、ウエダミツオ、エツダシンと共に出版社から呼び出されたアシダは4人で共同制作をと言われるのだけれどそれも何か怪しい。
アシダは作品を書く際に二つに分裂した自己、語り手が自己をもう一人の自分として客体化するものを書こうとして挫折ばかりで一作品も最後まで仕上げてはいない。仕上がらないのは当然のようで、分裂した自己、自分に客観性を持たせる事では、人格破綻に陥っていない事を自分で確認する他にアシダには何ももたらさず、結局どちらも自分自身である上に、アシダのように妄想癖が酷く、何事も楽観的に自分の良い方に意見を転ずる事にさして抵抗も無いのであれば、客観性とは程遠く、客体化していると思う自分自体が客観性を欠いているので、何かしらの結末へ辿り付く事は難しいのだろうななんて考えながらも、幾度と無く登場する英字に加えて登場する人物名もことごとくカタカナで記号的だな〜なんて思いながら読み進めました。
今も過ぎ去れば過去で、思い返すごとに多少の脚色は仕方が無いにしても、相当に忘れっぽく、かつ妄想癖のアシダが思い返す事には、現に事実としてあった事柄が、これでもかと脚色されているのであるし、けれどもそれは他者の助力によって補えるとは言うものの、その他者の発言さえも何かしらの疑いを持たねばならぬとはアシダも考えるものの、他者自体が分裂した自己の客体化の具現的幻想であったのならもうどうにもこうにもならないわけで、結局全ては自分へと戻り、一つとして物語を完結させる事の出来なかったアシダはやっぱり完結させられないのだななどという感じの読後感でした。内向きでありました。
これはなんだか良い予感がするぞ、と思っても当たったり外れたりするのだけれど、これは私としては楽しめました。巻末付録の解説とそれに伴う注釈に引用されている阿部談からすると、どうも産みの苦しみの末に本人的には思わしくない感じらしいのだけれど、読むほうとしては関係が無いわけで、前に読んだ阿部作品は『グランド・フィナーレ』だったのだけれど、それよりも面白く読めました。これは発行2006年なのだけれど、書かれたのは『ニッポニアニッポン』よりも前だということです。
何かの説明が延々と続かないせいかとてもテンポ良くよめて読みやすいな〜と思っていたら、2章で「ん?」と引っ掛る訳ですが、前後して読みながら納得すればその後は同じようにまたテンポよく読めました。
アシダイチロウが本人と、本人でありながら客観性を持った私とに別れてこれまでに起こった事を記していくという形式だけなのではどうもないようだと思い始めた辺りからが面白く読めました。
アシダイチロウが語る、私が語る、そしていつの頃から分からないが同居しているヤマモトフジコが語る。いつの頃からか分からないのは、アシダがとても忘れっぽくて、そのアシダと自分が殆ど人格を共有しているような気になっているフジコにしてもやっぱり忘れっぽいものだからどうにも分からない。
分からない事は他にもあって、イダフミコ、ウエダミツオ、エツダシンと共に出版社から呼び出されたアシダは4人で共同制作をと言われるのだけれどそれも何か怪しい。
アシダは作品を書く際に二つに分裂した自己、語り手が自己をもう一人の自分として客体化するものを書こうとして挫折ばかりで一作品も最後まで仕上げてはいない。仕上がらないのは当然のようで、分裂した自己、自分に客観性を持たせる事では、人格破綻に陥っていない事を自分で確認する他にアシダには何ももたらさず、結局どちらも自分自身である上に、アシダのように妄想癖が酷く、何事も楽観的に自分の良い方に意見を転ずる事にさして抵抗も無いのであれば、客観性とは程遠く、客体化していると思う自分自体が客観性を欠いているので、何かしらの結末へ辿り付く事は難しいのだろうななんて考えながらも、幾度と無く登場する英字に加えて登場する人物名もことごとくカタカナで記号的だな〜なんて思いながら読み進めました。
今も過ぎ去れば過去で、思い返すごとに多少の脚色は仕方が無いにしても、相当に忘れっぽく、かつ妄想癖のアシダが思い返す事には、現に事実としてあった事柄が、これでもかと脚色されているのであるし、けれどもそれは他者の助力によって補えるとは言うものの、その他者の発言さえも何かしらの疑いを持たねばならぬとはアシダも考えるものの、他者自体が分裂した自己の客体化の具現的幻想であったのならもうどうにもこうにもならないわけで、結局全ては自分へと戻り、一つとして物語を完結させる事の出来なかったアシダはやっぱり完結させられないのだななどという感じの読後感でした。内向きでありました。
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グランド・フィナーレ
グランド・フィナーレ 阿部和重著
娘と会うのも思うようにならない37歳、沢見は、現在独身、無職でロリコン。そもそも離婚の原因というのは、娘の裸姿の写真なんかが通常以上に納められたメモリーカードの中身を妻の沙央里に見られてしまったからで、加えてそのメモリーカードには、娘以外の少女達の写真も入っていた。沢見は教育映画の撮影技師という仕事をしながら、少女ヌード写真の仕事もしていた。それもバレて仕事もクビ。田舎に引っ込んだはいいが、一目娘に会いたいと切に願う…という感じ。いつか希望が叶うかもしれないその時を目指し、自分を律しようとする、けれどもどこかにあまさが出る、思い込みがぐるぐる巡る、阿部作品でよく出くわすタイプの主人公。
あとがきが良かったです。帯にあった私的に難解だった3行の文も、このあとがきで解決。解説・高橋源一郎さんで、これは解説して下さい!みたいな感じで、本文と同じくらい力を入れて読みました。高橋さんが言うには、彼は5、6回以上は本書を読んでいて、再読しなかったら肩透かしをくらった感のままだったと言うものだから、これはそのうち再読せねば〜なんてあとがきを読み進めていくと、高橋さんが大学で持つ講座で、本書を学生達と読んだってことで、これは学生に交ざらねば〜と思っていると、その講座風景が少々。この小説の変部分についてであります。その変部分というのは、あまりしっくりこなかったというか、それほど変と思わなかったのだけれど、講座終了直後の学生の感想で「あぁ」とうなずけます。なんだか、あとがきの感想に…
『グランド・フィナーレ』裏表紙には『ここで何が終わり、はじまったのか』で、帯には『終わりという名のはじまり』とあります。この本が他の阿部和重の本に比べて、難解さが少ないにも関わらず、この何とも言えない微妙さを読後に残したのには、この文も一役かっているなぁと思います。私としては、何も終わってないし始まってないな、と思ってしまったものだから、どうにもこうにも。確かに、離婚という終わりによって、娘に会えていたという生活にも終わりは来ているのだろうけど、最終的には何も変わってないのでは無いかと思われます。田舎に戻った沢見は、ひたすら散歩をしていても、学校、公園、コンビニなどなどの、少女に遭遇しそうな場所はとにかく避ける。のだけれど、後半、田舎の方で出会った少女二人の身を案じた場面では、そういった場所にも足を運び二人を探す。というのは、一見ロリコンとそれが再発されるだろう場所をクリアして、会って間もない自殺志願者の少女達の身を案ずるばかりの良い大人になったようにもとれるけど、その他大勢の少女達というところから、会った時から印象的なこの二人の少女に目標が絞り込まれただけともいえるような…
カメラを手にしなくなったわたし(沢見)は、現実を切り取っているけれど現実とはあきらかに違う写真というものを重要視していた世界から、言葉のみを使いこなし現実に介入しなければならない難儀な場所へと辿り着き、ここからが始まり的な終わり方になっているものの、娘のちーちゃんから、二人の少女に鞍替えしただけにどうやっても陥るんじゃないかなと思わざるおえない、そんな最終章が、一番あれな感じだったのかもしれないです。グランド・フィナーレってない!みたいな…感じに思いました。装丁好きです。それとタイトルも。
芥川賞受賞の表題作+『馬小屋の乙女』『新宿 ヨドバシカメラ』『20世紀』の三篇。
娘と会うのも思うようにならない37歳、沢見は、現在独身、無職でロリコン。そもそも離婚の原因というのは、娘の裸姿の写真なんかが通常以上に納められたメモリーカードの中身を妻の沙央里に見られてしまったからで、加えてそのメモリーカードには、娘以外の少女達の写真も入っていた。沢見は教育映画の撮影技師という仕事をしながら、少女ヌード写真の仕事もしていた。それもバレて仕事もクビ。田舎に引っ込んだはいいが、一目娘に会いたいと切に願う…という感じ。いつか希望が叶うかもしれないその時を目指し、自分を律しようとする、けれどもどこかにあまさが出る、思い込みがぐるぐる巡る、阿部作品でよく出くわすタイプの主人公。
あとがきが良かったです。帯にあった私的に難解だった3行の文も、このあとがきで解決。解説・高橋源一郎さんで、これは解説して下さい!みたいな感じで、本文と同じくらい力を入れて読みました。高橋さんが言うには、彼は5、6回以上は本書を読んでいて、再読しなかったら肩透かしをくらった感のままだったと言うものだから、これはそのうち再読せねば〜なんてあとがきを読み進めていくと、高橋さんが大学で持つ講座で、本書を学生達と読んだってことで、これは学生に交ざらねば〜と思っていると、その講座風景が少々。この小説の変部分についてであります。その変部分というのは、あまりしっくりこなかったというか、それほど変と思わなかったのだけれど、講座終了直後の学生の感想で「あぁ」とうなずけます。なんだか、あとがきの感想に…
『グランド・フィナーレ』裏表紙には『ここで何が終わり、はじまったのか』で、帯には『終わりという名のはじまり』とあります。この本が他の阿部和重の本に比べて、難解さが少ないにも関わらず、この何とも言えない微妙さを読後に残したのには、この文も一役かっているなぁと思います。私としては、何も終わってないし始まってないな、と思ってしまったものだから、どうにもこうにも。確かに、離婚という終わりによって、娘に会えていたという生活にも終わりは来ているのだろうけど、最終的には何も変わってないのでは無いかと思われます。田舎に戻った沢見は、ひたすら散歩をしていても、学校、公園、コンビニなどなどの、少女に遭遇しそうな場所はとにかく避ける。のだけれど、後半、田舎の方で出会った少女二人の身を案じた場面では、そういった場所にも足を運び二人を探す。というのは、一見ロリコンとそれが再発されるだろう場所をクリアして、会って間もない自殺志願者の少女達の身を案ずるばかりの良い大人になったようにもとれるけど、その他大勢の少女達というところから、会った時から印象的なこの二人の少女に目標が絞り込まれただけともいえるような…
カメラを手にしなくなったわたし(沢見)は、現実を切り取っているけれど現実とはあきらかに違う写真というものを重要視していた世界から、言葉のみを使いこなし現実に介入しなければならない難儀な場所へと辿り着き、ここからが始まり的な終わり方になっているものの、娘のちーちゃんから、二人の少女に鞍替えしただけにどうやっても陥るんじゃないかなと思わざるおえない、そんな最終章が、一番あれな感じだったのかもしれないです。グランド・フィナーレってない!みたいな…感じに思いました。装丁好きです。それとタイトルも。
芥川賞受賞の表題作+『馬小屋の乙女』『新宿 ヨドバシカメラ』『20世紀』の三篇。
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ニッポニアニッポン
ニッポニアニッポン 阿部和重著
鴇谷春生は、名前に『鴇』と字が入っていることから、鴇へのシンパシーを感じていた。春生が考える鴇の不遇と、郷里を追われる事になった自分の境遇とを重ね合わせ、より一層鴇への思いが増し、鴇を救うことこそが自分の使命と感じるようになる。鴇の救済へ向けて、計画と調査、準備に勤しみながらも、何度も頭に浮かぶ本木桜のこと。そして、鴇の為とは言いながら、自分の為の行動だと自覚するのだけれど、当の鴇が産卵したことを知ると、逆切れを始める。なぜなら自分は童貞で、自分が計画を練っていた間中、鴇たちは交尾に勤しんでいたからという理由。というように、鴇谷春生という人は、幼稚な面があり、自意識過剰。加えて思い込みが激しく、自分の事は過大評価。それゆえの盲目さなんかが、滑稽に描かれているところが、面白く読みどころ。
前半、鴇の開放か密殺か、いい加減どっちなの?と言いたくもなったり、何度も出てくる本木桜については、多分こうなんだろうなぁとは思うものの、後半までは殆ど触れられなくて、いつ出てくるの?と思ったりもするのだけれど、とにかく見所は鴇谷春生のかんちがい迷走爆走っぷりだと思われます。いつの日も。
鴇谷春生は、名前に『鴇』と字が入っていることから、鴇へのシンパシーを感じていた。春生が考える鴇の不遇と、郷里を追われる事になった自分の境遇とを重ね合わせ、より一層鴇への思いが増し、鴇を救うことこそが自分の使命と感じるようになる。鴇の救済へ向けて、計画と調査、準備に勤しみながらも、何度も頭に浮かぶ本木桜のこと。そして、鴇の為とは言いながら、自分の為の行動だと自覚するのだけれど、当の鴇が産卵したことを知ると、逆切れを始める。なぜなら自分は童貞で、自分が計画を練っていた間中、鴇たちは交尾に勤しんでいたからという理由。というように、鴇谷春生という人は、幼稚な面があり、自意識過剰。加えて思い込みが激しく、自分の事は過大評価。それゆえの盲目さなんかが、滑稽に描かれているところが、面白く読みどころ。
前半、鴇の開放か密殺か、いい加減どっちなの?と言いたくもなったり、何度も出てくる本木桜については、多分こうなんだろうなぁとは思うものの、後半までは殆ど触れられなくて、いつ出てくるの?と思ったりもするのだけれど、とにかく見所は鴇谷春生のかんちがい迷走爆走っぷりだと思われます。いつの日も。
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ABC戦争 plus 2 stories
ABC戦争 plus 2 stories 阿部和重著
plus 2 storiesというくらいなので、単行本の『ABC戦争』
と『公爵夫人邸の午後のパーティー 』
に収録されている2作をひとつにした、3作からなる著者の初期短編集。2冊の単行本より、トイレ写真が使われているこちらの装丁の方がが素敵だと思うし、お買い得。本棚に置くにも幅をとらない。阿部和重、どこがとは言えないけど、好きです。
『ABC戦争』は、山形、“YAMAGATA”つまりY県へ向かう列車の中から始まる。数年前、Y県の不良高校生達が起こした、通学列車の3輌目“ホンセン”内で起きた戦争を、当時高校を中退して上京してしまい、現場に遭遇出来なかった為に、事態を全く把握できてない語り手が話を進めていく。Y県へ向かう列車で入ったトイレで目にした“Y”というアルファベット一文字で、そこまで話を広げられるのかと、普通に感心してしまいます。
一触即発でもおかしくない状況の、不良高校生達が、戦争勃発の原点でもある“ホンセン”内で、どうにも大人しくしているしかなく、律儀にも車輌の両端に分かれて、敵対勢力同士が座っている姿を思い描くと、微笑ましさが込み上げてきます。そして、その状況の中で話す言葉を、敵に知られたくないばかりに、一字毎に、“バビブベボ”やら“らりるれろ”なんかを挟んで話している不良高校生を思うと、どうしたって笑みが漏れてしまいます。といように“ホンセン”での戦争の真相追及といった感じで話は流れていく訳だけど、とにかく迷宮的ということで。
『公爵夫人邸の午後のパーティー』は3作の中では一番好でした。
快楽事に積極的な楠木夫人が、思いがけず手にすることになった、パーティーの招待状を持ち、公爵夫人のパーティーへ向かう。パーティー内での出来事がひとつ。女子高生が、金持ちのオヤジと山小屋へ向かい(おそらく援交)、その山小屋での出来事がひとつ。この二つが、全くそれぞれ別々に進行していき最終的には一つの場所で終わりをむかえます。これが一番好きな理由は、きっと一番分かりやすかったからだと思われます。あと展開が(特に女子高生側の)好みだったのと、そこに出てくる若い男が妙に気に入ったからです。
『ヴェロニカ・ハートの幻影』は、キズだらけの男の語りも面白いし、小説家である友人と、キズだらけの男にとり憑いた霊との会話もいいけれど、最後が良く分からなかった。私の理解力と想像力がないだけなんでしょうが、誰かに説明していただきたいものです。
特に『ABC戦争』では、阿部和重はこういう書き方がすきなんだろうなぁと、なんだかしみじみ思ったりしました。彼の本を読む上での注意点といえば、とにかく改行が少ない。なので、ページいっぱいに文字列が綴られているわけで、読むためにそれを目で追っていくわけだけど、もう、休み無く隙間無くといったかんじで文字列が並んでいるものだから、車に乗っていて、車道の白線目で追ってたら眠くなるみたいな現象に陥りそうになる場面もあるわけです。
きっと彼が重点をおいてるんだろうなと思われる、言葉遊びというか、追求とか挑戦しているのではないかと思われる箇所は、特に力を入れて書かれているわけなので、早い話が時間の流れが発生しない状況に読んでいる方は立たされるのではないかと思われます。何が言いたいのかといえば、睡眠不足の時には読むなと、そんな感じです。
plus 2 storiesというくらいなので、単行本の『ABC戦争』
『ABC戦争』は、山形、“YAMAGATA”つまりY県へ向かう列車の中から始まる。数年前、Y県の不良高校生達が起こした、通学列車の3輌目“ホンセン”内で起きた戦争を、当時高校を中退して上京してしまい、現場に遭遇出来なかった為に、事態を全く把握できてない語り手が話を進めていく。Y県へ向かう列車で入ったトイレで目にした“Y”というアルファベット一文字で、そこまで話を広げられるのかと、普通に感心してしまいます。
一触即発でもおかしくない状況の、不良高校生達が、戦争勃発の原点でもある“ホンセン”内で、どうにも大人しくしているしかなく、律儀にも車輌の両端に分かれて、敵対勢力同士が座っている姿を思い描くと、微笑ましさが込み上げてきます。そして、その状況の中で話す言葉を、敵に知られたくないばかりに、一字毎に、“バビブベボ”やら“らりるれろ”なんかを挟んで話している不良高校生を思うと、どうしたって笑みが漏れてしまいます。といように“ホンセン”での戦争の真相追及といった感じで話は流れていく訳だけど、とにかく迷宮的ということで。
『公爵夫人邸の午後のパーティー』は3作の中では一番好でした。
快楽事に積極的な楠木夫人が、思いがけず手にすることになった、パーティーの招待状を持ち、公爵夫人のパーティーへ向かう。パーティー内での出来事がひとつ。女子高生が、金持ちのオヤジと山小屋へ向かい(おそらく援交)、その山小屋での出来事がひとつ。この二つが、全くそれぞれ別々に進行していき最終的には一つの場所で終わりをむかえます。これが一番好きな理由は、きっと一番分かりやすかったからだと思われます。あと展開が(特に女子高生側の)好みだったのと、そこに出てくる若い男が妙に気に入ったからです。
『ヴェロニカ・ハートの幻影』は、キズだらけの男の語りも面白いし、小説家である友人と、キズだらけの男にとり憑いた霊との会話もいいけれど、最後が良く分からなかった。私の理解力と想像力がないだけなんでしょうが、誰かに説明していただきたいものです。
特に『ABC戦争』では、阿部和重はこういう書き方がすきなんだろうなぁと、なんだかしみじみ思ったりしました。彼の本を読む上での注意点といえば、とにかく改行が少ない。なので、ページいっぱいに文字列が綴られているわけで、読むためにそれを目で追っていくわけだけど、もう、休み無く隙間無くといったかんじで文字列が並んでいるものだから、車に乗っていて、車道の白線目で追ってたら眠くなるみたいな現象に陥りそうになる場面もあるわけです。
きっと彼が重点をおいてるんだろうなと思われる、言葉遊びというか、追求とか挑戦しているのではないかと思われる箇所は、特に力を入れて書かれているわけなので、早い話が時間の流れが発生しない状況に読んでいる方は立たされるのではないかと思われます。何が言いたいのかといえば、睡眠不足の時には読むなと、そんな感じです。
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